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「安曇野を去った男 ある農民文学者の人生」に関するレビュー

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抗力は今にして発揮される

 農民文学者・山田多賀市(やまだ・たかいち 1907~90)といっても知る人は少ない。農民文学になじみがないのも、戦後社会の動向が農民文学の世界とは相反する世界に展開したからだろう。
 このほど刊行された『安曇野を去った男 ある農民文学者の人生』は、その山田の評伝である。著者は豊丘村出身で元信濃毎日新聞社論説委員の三島利徳さん(69)。第59回農民文学賞受賞作に、関係評論、年譜や著作目録も収めた。
 同じ農家の出身という身上から山田の人生に関心を抱いた一面もあろう。しかし、それ以上に三島さんがこの人物にひかれた理由は、晩年の山田をよく知る人の「恬淡(てんたん)、磊落(らいらく)」という人物評からだったという。
 山田は安曇野市の出身だが、活動の多くは山梨県だった。小学校中退の労働生活の中で農民組合運動に参加。一方で農村の苦境を描く小説も書く。戦後は雑誌出版や印刷事業を営み成功もみるがやがて破綻。変貌する農村を見つめ、波乱と盛衰を知る人生の中で、文学への思いだけは消さなかった。
 破天荒な山田の生涯で特筆すべき異端の行動は、やはり「徴兵拒否」であろう。集団的自衛権行使だの憲法改正だのという言葉が日常、生々しく飛び交う時代だからこそ興味を引く。今、この事実だけで山田に近づきたくなる人間が増えても不思議はあるまい。
 ところで「徴兵拒否」と「徴兵忌避」では、意志の意味合いに微妙な違いがあるように思えるのだが、どうだろう。子どものころ、父親の戦争体験の話を聞き、「戦争がいやなら断ればよかったのに」と言ったことがある。父は「そんなことできるはずがない」と言下に答えた。
 徴兵を知らない戦後生まれの子どもの、それは素朴な疑問でしかない。青年期になり、自らの身体を痛めつけ徴兵を忌避したという文芸評論家の話も聞いたが、説得力はなかった。
 ところがどうだ。山田は死亡届を偽造して兵役を拒否したのだ。住民票は戦後、本籍欄が「不明」のまま残った。役場職員が戸籍の復活を勧めたが、山田は「ささやかな反戦運動として、その勧めには応じなかった」(著者)。
 「安曇野を去った男」の行動は不思議な現実感を伴って、その時代の実体へと引き戻す。山田こそ「忌避」ではなく「拒否」の当事者ではないか。
 農民文学に裏打ちされ、生涯にわたり反戦・非戦の思想を持ち続けた山田が誇りにした徴兵拒否は、むしろ今にしてその抗力が発揮されているように思える。
 心が安らかで無欲、気が大きく朗らかで小事にこだわらない―。私たちが「恬淡、磊落」の人にあこがれるのは、ただ世の中がそうでないからだ。
 山田の農民文学を読んではいないが、どこかでかじった気になってしまう。会ったことのない人物をこれほど鮮明に浮かび上がらせ、まるで以前からの知り合いのようによみがえらせたその魔術は何か。
 綿密で粘り強い取材はもとより、三島さんの確かな筆力以外の何ものでもない。同じジャーナリズムの世界に身を置く人間にとって規範の一冊である。

村澤聡(ムラサワ・サトシ、南信州新聞記者。著書『中村壁と遺墨たち 誇るべき明治の飯田文化』)

『南信州新聞』(2016年12月10日「BOOKS 書考」より)

反骨の作家の生涯に迫る

 長野県安曇野市が生んだ農民文学者・山田多賀市(やまだ・たかいち 1907~90年)の生涯と作品を丹念にたどり、農民文学の意義と可能性を探る評伝・評論である。季刊『農民文学』に連載された「山田多賀市への旅―農民解放と文学」、第59回農民文学賞を受けた「山田多賀市の新境地―経済成長と農民文学」(改題)に、「信念の筆を最期まで―老いと文学」「山田文学・農民文学を見つめる」の書き下ろし2本を加えた4部からなる。
 小作農家に生まれた山田は、職を転々として山梨県内で農民組合運動に加わるが、弾圧される。結核療養中に作家・本庄陸男と出会い、「古今東西の万巻の書を読み自分の背丈くらい原稿用紙を書いてみることだ」と励まされ、33歳で農村の苦境を描いた小説「耕土」を発表した。戦争を嫌い、自分の「死亡診断書」を偽造して徴兵を忌避し、戦後も無戸籍を押し通し、反骨を貫く。
 戦後、出版業を興して甲府版『農民文学』を創刊するが、10年後に事業から撤退。親友・熊王徳平の勧めで再びペンを執り、歴史・説話ものから古代史へと新境地に挑み続ける。創作を生きる力に変え、82歳の晩年まで書き続けた山田の生涯を、著者は熱いまなざしで蘇らせる。
 山田の業績を引き継ぐ形で季刊『農民文学』は続いているが、著者の「非農民でも農業・農村のことを書いてこそ、農民文学は広がりを持てる」の指摘に共感できた。
 「農民文学を辿ることで日本の精神史が見えて来る」と考える著者は、山田を取り巻く時代や人々の探求も怠らない。巻末の資料も充実し、付論「農民文学への熱い思い(現代的展開)」で、農民文学のあるべき姿と成果を提示。農民文学に一石を投じている。

杉山武子(スギヤマ・タケコ、小説家、評論家。日本農民文学会会員。著書『一葉 樋口夏子の肖像』、『土着と反逆 吉野せいの文学について』など)

『日本農業新聞』(2016年12月18日「読書欄」より)

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