「近代日本の歩んだ道」に関するレビュー
『信濃毎日新聞』の記事から
三島利徳
『信濃毎日新聞』2005年12月31日付日刊(斜面)より
大みそかを迎えた。一年を振り返るのもいい。長い目で日本を顧みるのもいいだろう。歴史家田中彰さんの「近代日本の歩んだ道」(人文書館)と「小国主義」(岩波書店)に多くを教えられる。
大国主義は、大国が強大な力を背景に小国を圧迫する態度を指す。小国主義はこうした覇権に反対する姿勢である。明治以後の日本は大国主義の道を走り、太平洋戦争で破たんした。明治の初めには、大国主義と小国主義の両方の選択肢が示されていたと田中さんはとらえている。
岩倉具視を特命全権大使とする使節団が米欧を視察した。その記録「米欧回覧実記」を読み解いた結果だ。記録は、ベルギー、オランダ、スイスなど小国にも高い関心を示して、評価すべきことも挙げている。明治政府は結局、小国主義の道を取らず、日清戦争などで大国主義への傾斜を強めていった。
小国への道は明治期の自由民権運動に生かされ、植木枝盛は小国を目指す憲法草案を作った。大正期には、石橋湛山らが小日本主義を掲げ、植民地の放棄を主張している。受け入れられず、地下の伏流となる。戦後、民間の憲法研究会が発表した憲法草案に小国主義が盛り込まれていた。それを連合国軍総司令部(GHQ)が生かし、日本国憲法に取り込んだ。
田中さんは、歴史をこうたどる。久米邦武編、田中彰校注の「米欧回覧実記」は岩波文庫(全五巻)で読める。挿絵にも引かれる。正月以降に、ゆっくり読んでみたい気になってくる。
ブッククーリエ「ホンの書評」から
榛名 亮
ブッククーリエ(三省堂書店メルマガ)91号
「明治百年」の年に『未完の明治維新』(三省堂新書 1968)を著し、「王政復古」史観や「勝てば官軍」式の維新史から解放された明治維新の再構築を提唱し、『明治維新の敗者と勝者』(NHKブックス 1980)で、敗者の目からでなければ見えない歴史があるとの視点で明治維新の見直しに取り組んだ史家・田中彰の最新作である。
大政奉還し将軍職を返上した慶喜の真意は、慶喜(「大君」)を頂点に、「公府」と「議政院」よりなるいわゆる「大君制」国家を作ろうとする慶喜側近西周らの政権プランによって、新たな徳川国家を建国することにあった。
著者は語る。「討幕派には具体的な政権構想は欠けていた。だから討幕派はどうしても幕府側の「大君」制構想を軍事力によって粉砕する必要があったのである。鳥羽伏見の戦いに敗北し江戸に帰った慶喜はなお、徳川氏を中心とした権力構想を練っていた節がある。ここには選択肢がいくつかあったわけです。ほんのちょっとした条件ないし、状況の差で、維新政府のほうに流れが行ったことになります」。
ちょっとしたことで、あるいは実現したかもしれない、「もしも」という歴史の発想とは違う、実現する可能性のあった契機、具体性を持った選択肢を著者は「未発の可能性」と表現している。本書のキーワードである。
歴史学では、イフ(もしも)はタブーとされている。イフに恣意や願望が混入されるからである。とはいえ、荒唐無稽なイフは論外だが、現実的なイフにはありうるべき歴史がうずもれている。私は「未発の可能性」を「現実的なイフ」と解して本書を紐解いた。
ついで、「未発の可能性」としての新徳川国家構想のものとなったら、近代日本は全く異なった道を辿っていただろう、と著者は説く。それにしても、慶喜ほど「現実的なイフ」を許す要素が充満している人物はないと思う。
明治維新によってできた明治近代国家は、「富国強兵」を掲げて大国主義を目指し、結果として昭和20年の敗戦を迎えることになるが、著者はもうひとつの「未発の可能性」を岩倉使節団にみている。
岩倉使節団とは、大久保利通や木戸孝允ら創成期の明治政府の首脳らが、日本の国家体制作りのための模索を使命の一つとして、明治4年(1871)11月から1年10ヶ月の長きにわたって、政府を留守にし、英・仏・米など「大国」、ベルギー・オランダ・スイスなどの「小国」計12カ国を遊覧したことである。
明治14年の政変で、権力基盤を確立した大久保政権は、「小国」から「大国」への道、つまりプロシャの道を選んでいる。「小国」をモデルに選ぶ可能性がなかったわけでもないが、もし明治政府が、「小国」を自らの国家のモデルとして選んだとしたら、近代日本の歴史は大きく異なるものになったにちがいないとして、著者は「小国主義」論を展開する。伏流化した「小国主義」の実際として、明治10年代の憲法草案(私擬憲法案)、自由民権運動、大正デモクラシー、敗戦時の「憲法草案要綱」が論証されている。
幕末維新から日清・日露までを時代背景に多くの歴史小説をものにした作家に司馬遼太郎がいる。国民作家として多大な影響力を持つ司馬であるが故に、著者は司馬の日本近現代史の見方をとりあげ、分析せざるをえないのであろう。史家による作家司馬遼太郎論ともいうべき、そのくだりは読みごたえがある。
「司馬さんは、明治維新から明治憲法の制定、そして朝鮮問題をめぐっての日清・日露戦争の歴史過程を、外圧に晒された日本のやむにやまれぬコース、と捉えているようである。そういう意味で日清・日露戦争は日本の『防衛戦争』として位置付けているのである。しかし、そうとばかりはいえません」と司馬を叱咤しつつも、「ためらいつつ、苦渋に満ちた発言の奥底にある、司馬さんの歴史批判、国家批判の目」をかけがえのないものとして享受する姿勢には著者の史家としてのエスプリが感じられる。
本書は幕末維新から敗戦にいたるわが国の近現代史を日本には「大国主義」への歩みに対して「小国主義」への道はなかったのか、という視点から再検証したもので、「明治以来の現実の大国への道」が唯一ではなかったことが、祖父が孫に語り聞かせるかのごとく繰り返し説明されている。
生彩に富んだ記述は歴史研究のみに留まらない。1928年、山口県に生まれ陸軍士官学校で敗戦を迎えた著者が「歴史を振り返りつつ、自らの視野にある人々の生きざまを見ようとしてきた」半生をもとに、現代日本への警鐘をこめた書でもある。その一に曰く、
──いま日本政府は、憲法改正や「普通の国」発言に見られるように、「大国主義」へ急カーブを切ろうとしている。日本はもともと小国だった。いまや敗戦の原点に立ち、小国は小国に徹していきよう。「小国主義」に徹しよう。小国というのは勝者に対して敗者、強者に対して弱者というように、重ねられがちだが、そういうことではない。もっと毅然としたものが「小国主義」である──。
『SPA!』の記事から
ジュンク堂書店池袋本店 副店長 福嶋 聡さん
『SPA!』2005年9月6日号 「こだわり店員の大プッシュはこれだ」より
歴史に学べば失敗は避けられる。
小国主義によって日本は生き延びてこられたのだ
明治以降、日本は戦争を繰り返し、「大国主義」への道を突き進みました。ところが、岩倉使節団は米欧回覧のとき、大国ばかりを視察したのではなく、ベルギーやスイスといった小国もつぶさに視察し、そこから学ぼうとしていたんです。著者の田中彰は、『近代日本の歩んだ道「大国主義」から「小国主義」へ』(人文書館/1890円)の中で、「未発の可能性」という言葉を用い、日本が辿る道に「小国主義」の可能性があったと言っています。
戦後に制定された日本国憲法は、GHQの押し付けだと思われがちですが、実は脈々と国内で受け継がれていた小国主義がベース。確かに憲法を一読すると、主権はあくまで国民で、圧力や暴力を加えるものではない、と書かれていますよね。憲法は為政者への歯どめなんです。小国主義は、明治維新後の日本が生き延びる、もうひとつの知見だったわけですが、大国主義に失敗したことで、戦後着目され、現代においてようやく定着。歴史家の目を通しての日本の在り方が見つめられます。
米欧回覧実記 岩倉使節団の記録 口語訳が完成
現代に生かす 大転換期の知恵学ぶ
郷原信之
『日本経済新聞』2005年8月13日付朝刊(文化欄)より
明治のはじめに多くの政府要人が欧米各国を訪れた「岩倉使節団」の記録、『米欧回覧実記』が改めて注目を集めている。漢文調の言葉を平易な日本語にした現代語訳が完成し、開国直後の日本人西洋をどうとらえたかを探る研究も活発だ。そこからは、時代の大きな転換期を生き抜く知恵を、近代日本の出発点に学ぼうとする姿勢が伝わってくる。(略)
「小国の道」提示
『米欧回覧実記』の研究では、現代に通じる問題意識を読み取ろうとする傾向が強い。岩波文庫版の校注者、田中彰・北海道大学名誉教授は6月に出版した『近代日本の歩んだ道』(人文書館)で、『実記』はドイツなどを手本にする大国の道だけでなく、「小国」の道も同時に提示したものだったと論じている。
「凡(およ)そ欧州ニ於(おい)テ、能(よく)独立ヲ全クセル小国ハ、其兵ノ強健非常ナリ、白国(ベルギー)、嗹国(デンマーク)是ナリ、其人民ノ気象モ亦(また)ミナ強シ」。
『実記』全百巻のうち、ベルギー、オランダ、デンマーク、スイスという当時の小国に当てられた巻は、十巻にのぼる。
田中教授は久米が「東洋の小国だった日本の実情を重ね合わせ、独立を守る秘訣に関心を向けていた」と指摘。帝国主義が席巻する直前の東アジアで小国の選択肢を排除しなかった視点に、「軍事力による国際貢献の是非や憲法改正問題で揺れる現代日本が参考にすべき点は多い」と主張する。(以下、略)