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「花に逢はん[改訂新版]」に関するレビュー

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幾多の花に出あった人生を。
「たくさん書きなさい。自分の中に一杯蓄えなさい」

 作家は手にした文に驚いた。訪問する予定の小学校の生徒が書いた作文だった▼作家は川端康成氏。訪れた学校は沖縄のハンセン病強制隔離施設の中にあった。生徒たち一人一人に丁寧に挨拶をした氏は、その小学生と話をした▼氏の目は涙であふれていた。「たくさん書きなさい。自分の中に一杯蓄えなさい」。4週間後、本の入った大きな木枠の箱が学校にいくつも届いた▼感染力は微弱。世界的には隔離の必要なしとの医学的見解が出ていた。が、日本で強制隔離は続いていた。療養所からは高校や大学に行けなかった。わが子の将来を考えた父は決意した。「脱走しよう」▼事情を知ったタクシーの運転手、小舟の船頭が協力してくれた。以来40数年、苛烈な差別はあった。しかし、学友、職場の先輩が助けてくれた。その小学生、伊波敏男さんは、たくさんの本を著す作家となった▼絶望の時、支えてくれた人のことを、伊波さんは「花」と呼ぶ(『花に逢はん』人文書館)。幾多の花に出あった人生を幸福と振り返る。(哉)

『聖教新聞』2008年2月6日(水)「名字の言」より

「人は、私にとってはまさに『花』そのものである」

 著者は沖縄県出身のハンセン病回復者で作家。現在は上田市に暮らし、小中高校に招かれて子どもたちに体験を語っている。
 半生をつづった本書が最初に出版されたのは1997年。それから10年を経て出た改訂新版は、加補筆を行い、解説も充実させ、装丁を一新した。2001年のハンセン病国家賠償請求訴訟熊本地裁判決を機にハンセン病問題が大きく動くなかで、この本を歴史の記録として次世代へ伝えていきたい──という静かな決意が伝わってくる。
 著者は16歳の時、本土復帰前の沖縄の療養所から“脱走”して本土へ渡った。当時はまだ渡航制限があったが、本土の療養所にある高校で勉強をしたい──との一心から。その後病は治癒したが、東京で就職、結婚した後も、偏見、差別と闘い続けてきた。
 だが、この本は社会を告発する書ではない。強い意志と、さまざまな人との出会いによって、自らの人生を切り開いてきた一人の回復者の軌跡だ。「人は、私にとってはまさに『花』そのものである」とつづられた文章の底流には、自らへの問い返しと、人間への信頼がある。

『信濃毎日新聞』2007年12月23日(日)読書欄 より

見えない「日本」が見えて来る。

有木宏二(美術史家)

 「モガリ笛 いく夜もがらせ 花ニ逢はん」
 ──死の5日前に詠まれた檀一雄の絶筆から題名を得た本を、ある理由から、ぼくは北海道に連れて行った。ある理由というのは、沖縄県出身の伊波敏男さんの本を、ぼくはどこか遠い場所で読んでみたいとつねづね思っていたからで、ようやくその機会が9月の末に訪れたのだった。
 伊波さんの最新刊『花に逢はん[改訂新版]』(人文書館、2007年)は、370ページを超える分厚い単行本である。出発前日の夜、旅行鞄の中にそれを入れようとしたとき、躊躇がまったくなかったわけではない。鞄の中には読みかけの栞を差した文庫本、司馬遼太郎さんの「街道を行く」シリーズの一冊『沖縄・先島への道』(朝日新聞社)がすでに小ぢんまりと収まっていたし、ぼくは交通機関の座席で文学青年よろしく、手のひらにあり余る大きさの本を読むことは、あまり得意ではない。寝転がって、「どうしようか……」と思いつつ、ページを繰りはじめると、しかしそのまま夢中になって、気がつくとすでに日付けが変わっていた。朝になって、枕元のその本を迷いもなく鞄の隙間に押し込んだことは、いうまでもないだろう。
 著者の伊波敏男さんは、ハンセン病──松本清張さんの『砂の器』などで知られているように、「日本」では「らい病」と呼ぶほうがピンとくるのかもしれない──の回復者である。1943年に沖縄本島の今帰仁(なきじん)村に生まれた伊波さんは、乳飲み子のときに母親の背中であの集団自決を生き抜いたが、しかし9歳になってハンセン病を発症しはじめ、やがて四肢に異変をきたし、14歳のとき、家族からも社会からも隔離され、以後「屋我地」というほとんど孤島に近いような場所での療養所生活を強いられた。しかも「関口進」という「ウチナンチュ」にはない別名で本来の素性を隠しつつ……。
 しかし、療養所での生活がことごとく牢獄のように暗く冷たいものだったかというと、そういうわけでもない。やはりさまざまな出会いがあり、希望があり、夢があったが、伊波さんにとってそれを押し広げることになった一人が、何と療養所を訪問した川端康成だった。「もっと書きなさい」。この稀代の文豪との出会いが、伊波さんをさらなる勉学へと後押しした。けれども、療養所には中学校までしかない。高等学校の勉学をつづけるには本土に渡らなければならない。ところが、その頃の沖縄は米軍の占領下である。つまりパスポートが必要だったが、特別な病を患っている伊波さんにそう簡単に渡航が認められるはずはない。こうして、苦労してパスポートを入手した伊波さんは、絶望を希望に変えるために1960年のこと、療養所を逃亡し、病に冒された両手を黒いコートでひた隠しにして、本土に潜り込んだのだった。
 驚かされるのは、伊波さんの人生に立ちはだかるさまざまな出来事の、その克明な描写力である。出来事の過酷さがそうさせるのだろうか、伊波さんの文章には、記憶のあいまいさも、その美化も、感じられない。書くほどに「高く澄んだ青空」のように晴れ渡ってゆくのである。伊波さんにとって、生きることはハンセン病と闘うことだった。したがって、伊波さんの書くことを支えているのはその病であるが、いいかえればその病は、琉球人として生まれ、ハンセン病に苦しんだ伊波さんの心をどこまでも浄化しつつ、本来の言葉ではない標準語で書くことを強化していったように思われる。
 日本で「らい予防法」が制定されたのは、1953年である。が、まもなく、医学の進歩とともに医療が高度化し、ハンセン病が不治の難病ではなく完治可能な疾患である、という認識が、国際的に浸透しはじめる。しかし「日本」では、誤謬(ごびゅう)を引きずりつづけ、偏見の元凶というべきその悪法が廃止されるのは、制定から40年以上を経た1996年4月1日だった。その間の1970年、沖縄は本土に復帰する。が、ハンセン病についての正しい認識の浸透しつつあった「OKINAWA」は、音もなく闇に葬られたと伊波さんは、だからだろうか、まるで鉛筆の芯が折れるほどの力強さで書く。
 沖縄県の療養所を逃亡した後、伊波さんは、岡山県の療養所で高校生として勉学をつづけた。同時に過酷な治療も受けつづけ、ついに完治し、晴れて東京に出て自立するに至る。が、それでもなお伊波さんは、社会に根強く存在する根拠なき偏見とそれに基づく差別に対し、闘いをつづけなければならなかった。いったい、「日本」とは何なのだろうか。伊波さんが自らのハンセン病を語ることによって突きつけるのは、ぼくたちがまったく意識さえしないであろう、「日本」に住む「人間」として生きるための最低限の尊厳である。
 そしてその一方で、1970年にまたもや沖縄の上に当然のごとく上書きされた「日本」という国家の有り様も問われているのではないか。
 旅先の北海道で読んだもう一冊の本『沖縄・先島への道』には、次のように書かれていた。「明治後、『日本』になってろくなことがなかったという論旨を進めてゆくと、じつは大阪人も東京人も、佐渡人も、長崎人も広島人もおなじになってしまう。ここ数年このことを考えてみたが、圧倒的におなじになり、日本における近代国家とは何かという単一の問題になってしまうように思える」。戦時中、軍人として栃木県の佐野に駐屯した経験を持つ司馬遼太郎さんが看破するように、軍隊が守ろうとするのは抽象的な国家であって、具体的な国民ではない。「沖縄は身代わりになった」。
 伊波さんというハンセン病を患った一人の「人間」の言葉に向き合い、その想像を絶する痛みをあえて分かち持とうと志すかよわき花となるとき、そこには見えざる病というべき「日本」が見えてくる。そしてその「日本」にこそ、海を隔てて沖縄は嘆き、またアイヌは吼えている。『花に逢はん』を一気に読み終え、それから『沖縄・先島への道』を夜毎読みつづけた北海道から帰って翌日に受け取った新聞の第一面には、沖縄の集団自決に関わる軍部の強制についての教科書の書き換えの問題が、大きな白抜きの文字で取沙汰されていた。しかしその文字の大きさは、まだまだ足りないような気がした。

『fooga』11月号 通巻70号 2007年10月25日発行 〈(株)コンパス・ポイント〉より

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