ブックレビュー

「「日本」とはなにか 文明の時間と文化の時間」に関するレビュー

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文化人類学と比較文明学を架橋する!

小林道憲・福井大学教育地域科学部教授/麗澤大学比較文明文化研究センター客員教授

 『「日本」とはなにか』と題する本書は、文化人類学と比較文明学を橋渡ししてこられた故・米山俊直先生の遺著である。米山先生は、本書の中で、時間の壮大な長さの中で文明をとらえる比較文明学的考え方と、フィールドワークを通して細かな経験の意味を考えていく文化人類学的考え方とを交差させながら、日本とは何かについて、多くの方面から接近しておられる。先生の日本文化に対する基本的な見方は、日本文化の統一性を探る方向にではなく、最初から、日本文化の多様性を浮き彫りにする方向にあったと言えるだろう。
 その日本文化の多様性を、著者が〈小盆地宇宙〉という概念で捉えてきたことは、よく知られている。それは『小盆地宇宙と日本文化』(岩波書店)以来、本書の中に収められた「小盆地宇宙再考」に至るまで、一貫して変わらない著者の見方であった。日本文化は単一ではなく、およそ百の盆地を単位にして成立しており、それぞれが小宇宙(地域文化)を形成している。その単位を、小盆地宇宙と、著者は呼んだのである。
 山々に囲まれ分水嶺の内側の水が集まって一つになるような地形、それが典型的な小盆地である。そして、その閉鎖的な空間の中心に平城があり、城下町があり、そこで物資や情報の集散が行なわれている。その盆地の内部、つまり盆地底の水田地帯とその周囲の丘陵部の棚田、畑地、果樹園、茶畑、桑畑などの地帯、さらに、それを取り囲む山地・里山に始まり、より深い奥山にいたる山間、ないし山地帯、場合によっては高峰にも至る山岳部も含めて、その全体が小盆地宇宙なのである。そこには、弥生時代以来の稲作があり、幕藩体制下の行政単位、統治の単位である領主とその家臣団の居住地・武家屋敷があり、また、域内の物資を流通させる市場があり、商家や鍛冶屋などの手工業者の居住する町場があり、市の日には城内の産物の交易と流通が行なわれた。しかし、他方では、山には、縄文時代以来の伝統を生き生きと伝えている隠れた空間がある。典型的な小盆地宇宙を略叙するなら、およそ以上のようになる。
 こうして、著者は、小規模な盆地世界の内部にある固有のコスモロジーに着目、小盆地という共同社会がもつ世界観を小盆地宇宙として記述していく。コスモロジーとは、ここでは、自然環境と社会・文化環境との結びつきから出てくる世界観のことである。そのコスモロジーは、一日の日課や、一年の年中行事や生涯の通過儀礼など、長短にわたるリズムによって構成されている。政治や行政がどのようにかかわろうとも、このような小盆地宇宙のコスモロジーは容易には変化しなかったと、著者はみる。しかし、同時にまた、著者は、社会の進化、変遷過程にも注目し、小盆地の生活史の枠組みそのものが崩れさり、新しいものが作られていく過程をも見逃してはいない。変わらないものと変わるもの、静態と動態の接点から、小盆地宇宙を記述していくのである。
 一方、綿密なフィールドワークを通して、日本の小盆地宇宙を文化人類学的視点から捉え直してきた著者は、本書では、一転して縄文時代に帰り、これを、文明の時間と文化の時間を考えるための補助線にしている。
 特に、青森市の三内丸山遺跡に注目、縄文人の豊かな生活文化を浮き彫りにしていく。三内丸山遺跡は、今から5500年前から4000年前まで、1500年にわたって人々が居住し、農耕も営み、営々として形成してきた縄文前期中葉から縄文中期末の遺跡である。そこに遺されていたものは、巨大な掘っ建て柱跡や大型住居跡、整備された道路、大人や子供の墓場、栗や雑穀や野菜の栽培の形跡、豊かな海産物、大量の土器、石器、土偶、高度に進んだ技術で加工された漆工芸品、黒曜石やアスファルト、琥珀や翡翠の交易を行なっていた形跡など、膨大な数にのぼる。三内丸山遺跡からも分かるように、縄文人は貧しい物質文化しかもっていなかったのではなく、豊かな生活文化と精神文化を備えていたのである。
 とすると、縄文人のコスモロジーを単純にアニミズムとだけ片づけてしまうことはできない。むしろ、今日の日本文化史の始点とされている『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』や『風土記』のコスモロジーの源泉には、縄文人の世界観が脈々と息づいているとみなければならない。だから、また、柳田国男が『遠野物語』や『山の人生』などで語ったこと、折口信夫が「古代研究」で追求してきたテーマにも、縄文文化の方から新しい光を当てることもできるだろう。縄文時代に帰ることによって、神話学や民俗学の分野の新しい地平が広がる可能性がある。日本文明は、縄文時代から連続した伝統を、今も受け継いでいるのである。
 日本文明は、弥生時代に始まる稲作文化を出発点とするのではなく、三内丸山遺跡に代表されるように、縄文時代から始まる5500年の文明史とみなければならない。著者の主張するところは、このことである。日本文明がメソポタミア文明と同じ古さになり、日本文明の長さが通念を越えて一気に伸びることになる。本書は、スケールの大きい息の長い日本文明論である。
 本書は、千年単位の比較文明学的発想と、ミクロな〈いま・ここ〉への眼差しをもつ文化人類学的発想とを適度に織り交ぜながら、日本文明論のパラダイムチェンジを促そうとするものである。そのような視点は、本書に収められていた他の論文にも現われている。インドネシアのバリ島と日本の水利社会の比較、海からみた日本列島論、祇園祭を中心とした京都文化論、日本文明の基礎にある江戸・東京文化論、そして最後の講義となった「小盆地宇宙論その後──なら学との関連で」などである。
 著者の書きぶりや話ぶりは幅広く、多方面に及び、至るところで自由で闊達な議論がなされている。著者の屈託のない性格もよく現われている。
 本書の付論として付け加えられている2006年2月5日の奈良女子大で行なわれた〈なら学最終講義〉の冒頭で、著者は、「自分はもうあと三ヵ月の命と医者から言われている」と告白し、「私はひょっとすると、この世とあの世は往来自由ではないかと思っている」と言って、〈なら学〉の講義を始めている。〈なら学最終講義〉は著者の遺言だったのである。
 米山先生はその後再び入院、病床に就かれた。
 それにもかかわらず、評者がそのころ上梓した『文明の交流史観』をお送りした時も、わざわざ病床から丁寧なお返事をいただいた。評者は、その時はじめて先生の再入院を知り、急いで、一日も早い御回復を祈るお手紙を差し上げた。
 米山先生が亡くなられたのは、それから間もなく、2006年3月9であった。もう早、二年にもなる。
 先生のお住まいのある京都太秦にも、以前と変わらない梅の花が咲いたことだろう。

麗澤大学比較文明文化センター年報『比較文明研究』第十三号、2008年3月

境界的世界を生きた、ユニークな人文科学者の
[知の冒険]と[知の遺産]
──新しい知の枠組みが胎動してくる面白さ!

末原達郎(京都大学大学院農学研究科教授)

 1970年代の教養部には、自由と学問の萌芽があふれていた。文化人類学もその例外ではない。当時の文化人類学は、京都大学の学問の体系の中では、まだしっかりと確立されていたとはいえなかった。教養部には本書の執筆者である米山俊直氏がただひとりおられ、文化人類学の授業を受け持っておられた。
 もちろん、理学部には自然人類学の講座があったし、人文科学研究所には社会人類学の講座があった。人類学全般に関しては、数多くの若い研究者群が、フィールドにでかけており、研究発表を行いあい、多様な研究会を組織しつつあった。
 体系化された組織としては脆弱だが、研究の意気込みや研究分野の広がりは、今以上に高く、かつ多様であった。
 『「日本」とはなにか』は、京都大学ではじめて専任教官として文化人類学を講義され、ついで人間・環境学研究科で文化人類学研究の基礎作りをされた米山俊直氏の最終講義を含み、人生を通しての思考の過程を、著作としてまとめたものである。
 本書は、「日本」とはなにかを問う際に、まず都市列島であると捉えるところから出発している。かつて『日本のむらの百年』で、日本の農村社会のもつ生命力の強さとその利点とを強調していた著者は、今ではもはや日本が実質的に都市列島になった、と宣言する。それは著者が歩み続けてきた道、農村社会と都市社会の拮抗の中に、日本の社会の実像を探ろうとしたさまざまな試みの過程が、最終的に一本化されたことを意味する。
 米山氏はもともと農学部に属し、農村社会学や農業経済学を基に、研究を開始された。修士論文や卒業論文は、日本の農村を正面からあつかったものである。しかし、日本の農村をその内部からの視点の分析だけで、終わらせることはなかった。常に、農村の外部から、たとえば奈良県の山間の農村や都市近郊の農村の分析に際しても(『米山俊直の仕事 人、ひとにあう。──むらの未来と世界の未来』、人文書館)、近接する都市や、遠隔の大都市との関係性の中で農村社会を見る眼があった。あるいは、東北、岩手県の農村を見る場合にも、盛岡市や、はるか東京という大都市と結び合う視点が含まれていた。
 米山氏の類まれなこの感性、すなわち地域社会の内部の論理を瞬時にして理解すると同時に、その一方で地域社会の外部からの眼差しとその関係性を見極める的確さは、日本の農村社会とその外部だけの研究にとどまらず、その後、外国の社会の研究や外国からの眼差しを見る場合にも、いかんなく発揮された。
 本書の中で米山氏は、自分の子供のころからの生活に触れ、父親の出身地である東京の都市的世界と、母親の出身地であり家族が住む奈良の農村的世界の両方に、子供の頃から親しみながら暮らしてきたことについての、いくつかのエピソードを書いている。こうした米山氏の個人的経験が、やがては都市的世界と農村的世界の比較、あるいは東日本と西日本の比較、さらには日本と世界との比較へと発展していったのではないかと私は考える。
 しかし、米山氏の比較の根底には、都市の憧憬が、どこか含まれていたように思う。米山氏は農村的世界に対して暖かい共感を抱いているが、それ以上に、都市に対しては常に強い好奇心を持ち、尽きることがなかった。都市こそ、米山氏を自由にし、新たな思考をめぐらすにふさわしい場所であったのである。米山氏は都市を歩き回り、さまざまなものを発見し、自らの内部と向き合い、思考し、さらに歩んでいった。都市的世界とその風土は、境界的世界を生きる眼をもつ米山氏にそれを許し、その視点を評価してくれる場所でもあった。
 本書を貫く、米山氏のフットワークの軽さは、われわれに学問の枠組みを越えて、思考することの本来の楽しさを味わわせてくれる。それは、体系化された学問の中に住み続け、身動きが取れなくなってしまう学問とは別種の、新しい学問が胎動してくる時の面白さである。また、それに参加することの楽しさである。
 もちろん現在では、文化人類学はしっかりとした学問体系の中に位置している。京都大学も、その例外ではない。しかし、もし京都の学風というものがあるとすれば、それは既成の学問の体系からさらにはみだして、新しい学問を生み出していこうとするエネルギーであり、古い学問の体系をひっくり返してみようとする、ひそかな志ではないだろうか。
 本書を読むと、1970年代の学問におけるあの自由さが、ふっとよみがえってくる。

『人環フォーラム No.22』2008年3月28日発行 第22号 61頁・書評 より
編集:『人環フォーラム』編集委員会 発行:京都大学大学院人間・環境学研究科 協力:同委員会委員長・高橋義人先生

『「日本」とはなにか』文明の時間と文化の時間
米山俊直 著

葛西映吏子(関西学院大学大学院・文化人類学)
中川千草(関西学院大学大学院・文化人類学)

 2006年2月、奈良女子大学で開催された「なら学講演会」に参加した私たちは、本書の著者である米山俊直先生のお話を聞かせていただいた。このときの内容は、「付論・最終講義」として、本書に収録されているが、私たちにとっては、米山先生から受けた最初で最後の講義となってしまった。先生は講義の冒頭で、「私はあと余命3ヶ月ということです。この世とあの世を行ったり来たりしている状態です」と淡々とおっしゃり、講演会への参加者を驚かせた。その予言より早く、2006年3月9日、米山先生は静かに旅立たれた。享年、75歳であった。
 私たちが米山先生の最晩年に関わらせていただくきっかけとなったのは、1960年代に先生が英語で書かれたモノグラフを日本語に訳す、という機会をいただいたことだった。翻訳作業を進めれば進めるほど、まるで「外国人」が見たかのような詳細な「日本農村」の記述に新鮮さを感じるとともに、1000年前のむらと「いま」のむら、都市近郊のむらと東北山間部のむらをクロスさせるというスタイルに、自分たちが日本のむらを歩きながら描いてきた世界観や時空間の小ささを思い知らされた。このモノグラフは、「日本農村の文化変化」として、当時の生活の様子をありありと映し出した写真とともに、逝去後、ベストセレクションとして出版された『米山俊直の仕事 人、ひとにあう。』(人文書館、2006年)に収められてる。
 晩年の「仕事」に関わらせていただくなかで、先生は、フィールドワーク経験や好きな本のことなどを私たちに語ってくださった。大変親しみやすく、自由でスケールの大きな方だと感じた。
 本書は、日本内外、都市と地方とさまざまな場所でフィールドワークをおこなってきた著者が、古希を迎えなお多忙な時期に、それまでのむらへの眼差しを整理総合して、「多様な日本」の姿を見通したものである。そこで示される日本における多様性への関心は、自分自身の生活世界のなかで、つねに自らの「目」や「心」を相対化し対象をみつめ続けてきた著者ならではのものといえるだろう。宮城県栗駒や奈良県二階堂など、日本の農村を文化人類学的視点から捉え直すなかで、著者の視線は、日本文化を一元化する方向ではなく、日本文化に内在する多様性の発見に向けられていた。
 著者は、その多様性を分析する基礎的な単位を「小盆地」に見据える。「小盆地」とは、本書のなかで〈「小盆地宇宙」再考〉と題してあらためて論じられていることからも分かるように、著者が研究生活のなかで常に意識してきたものである。読み手としても、著者の意図に触発され、あらためて「小盆地宇宙」としてのむらを再考する契機となった。著者は、自然環境と社会・文化環境との結びつきをあらわす概念として「小盆地宇宙」を提案し、日本の小規模な盆地世界の内部に息づく固有の文化的世界観、コスモロジーに注目した。当然、小盆地宇宙のモデルは、著者が実際に訪れたり、暮らしたりした土地に根ざすもので、その豊富な経験から立ち上げられたものである。
 綿密なフィールドワークにもとづいた人類学的発想は、本書の中で、文明学的発想と統合して語られている。つまり、「文明学」としての1000年単位の発想と、「人類学」としてのミクロな「今、ここ」の個人的思惑や実践にたいするまなざしが、さまざまなフィールドのコスモロジーの分析をとおして交差しているのである。この点こそが本書の試みであり、かつ最大の魅力である。
 日本文化が弥生時代にはじまる稲作文化として周知されてきたことに異論を唱え、縄文時代の三内丸山からはじまる5500年の文明史を主張するという著者の試みは、日本人が米だけに依存せず、さまざまな食物に親しんできたという日常生活から想起されるものである。このように時空間の壮大な広がりを可能とする文明学と、フィールドにおける「日常」の経験に意味を持たせる人類学とを行ったり来たりしながら、著者は、日本とは何かについて本書の中で問う。
「日本とは何か」を問うきっかけは、何も日本国内の事象との出会いに限らない。著者が歩き回った東南アジアやアフリカの地の風景やモノ、人の営みが、日本文化や日本の多様な姿を問い直すはじまりとなることも少なくない。たとえば、著者の感覚を通して、インドネシア・バリに広がるさまざまな風景やモノは、「灌漑文明」、「水利社会」を連想させ、バリの急斜面に築かれた棚田は、それまで見聞してきた日本の棚田、日本の水利組織のイメージとつながっている。そのイメージとは、「限界地」としての棚田地域ではなく、背後の森林を水源とし、棚田と集落、そしてその森林を1セットとする基盤のうえに成り立つ、文化的でシステマティックな農村社会である。こうした社会の組織やシステムの多様性を考察するなかで、著者は、その場所がもつコスモロジーを発見していく。
 著者がいうコスモロジーとは、自然や生業に加え、文化的なものをも含みこむものである。盆に読まれる回向の経や提灯のむれ、その提灯の火が消され、急に闇にとざされた川原などもまた、コスモロジーの表れではないだろうか。奥美濃のむら上大須を訪れたときに丘に登り見下ろした谷のあり様や、盆の夜の光景などが、ひとつひとつのフィールドの多様な姿を表しているのである。
 こうして、著者は、むらのもつコスモロジーへのまなざしを常に持ち続け、多様な日本の姿を明らかにしてきた。さまざまなフィールドの積み重ねによって、小盆地的世界観が発見されてゆく。
 小盆地宇宙論がだされる20年前に書かれた、『日本のむらの百年』(1967年)のなかの議論ですでに、著者は独自の世界観をもつものとして「むら」をみている。明治の町村制や昭和の町村合併によって、大きい行政単位のなかにつつみこまれながらも、むらという小地域社会は消滅しなかったと明言しているのである。そして、むらとは、個人が経験する生活史の枠組みであり、何世代もの人々が受け継いで続けられてゆくものとして、その存在を強調している。むらを、個人の生活や運命を拘束する小宇宙として捉えるという著者の立ち位置は、本書にも色濃く表れている。
 ここで、著者のむらにたいする視線をたどってみよう。むらは、1日の日課のリズム、1年の年中行事のリズム、そして通過儀礼(誕生、成人、結婚、死などにかかわる儀礼)による生涯のリズムの3つの波長が織りなし、ハレとケの状況の交替によって、生き生きとしたひとつの社会過程をつくり出しているという。それはサイクリカルなもので、いったん伝統ないし習慣として確立すると、容易に変化しないものであるかのように見える。むらのコスモロジーとは、このようなものを指すのであろう。
 しかし、さらに別のリズムがあると著者は言う。この第4のリズムは、いわゆる社会ないし文化の進化の過程という、不可逆的な、時間に沿って一方向的にすすんでゆくものである。あたらしくつけ加えられてゆくさまざまな事象、事物が、やがてはむらという生活史の枠組みそのものをも崩しさり、あたらしいものを作ることを要求することもある。それは、日課、年中行事、通過儀礼という一種の安定したリズムをもゆるがすことになる。
 こうした指摘は、著者が、小盆地宇宙の内と外との「交通」を重視していたということ、「都市」への関心を早くからもっていたということを示している。小盆地宇宙論は、著者自身が生活世界のなかで感じ取ってきたイメージ、具体的には、「むら」的社会と都市社会を行ったり来たりする経験と深く結びつき、論理形成を後押ししている。
 小盆地の内部には、文化的には世界観とよんでいいものが存在している。著者は、生活空間としてのむらは生活に必要な文化要素がととのえられており、精神的、肉体的な諸条件を最低充足するためのもののつみ重ねであるという。むらをひとつのコミュニティと捉えてみると、それは、地縁と血縁を紐帯とした人びとの集まりであり、固有の自律するためのシステムやネットワークを生成・再編する機能をもつものとして考えられる。著者は、そのコミュニティを取り囲む地形や自然環境を含むひとつづきのセットとしてコミュニティをとらえている。それは、小盆地宇宙論を念頭においたコミュニティ観である。自然環境を基礎とした固有の世界観をもったものが、著者のコミュニティ観と考えられるのである。
 今、私たちが暮らす現代社会では、自然環境との関わりがますます希薄なものとなりつつあり、かつ、コミュニティやむらといった生活の単位が形骸化し、崩壊の危機にさらされている。こうした世相を背景として、コミュニティという生活と文化の単位が見直され、コミュニティの意味を再考する議論が沸騰している。だが、こうした議論は、中間集団論にみられるような、システムやネットワークの再構築に偏りがちである。
 著者は、「むら」というコミュニティの単位を実体として捉え、そのひとつひとつがもつ文化や世界観を小盆地宇宙として描いた。それは、人類学や民俗学におけるパラダイム転換の後も変わることのない主張として貫かれている。こうした著者独特の研究上の軌跡からも学ぶべきところは多い。
 2006年の冬、私たち二人は米山先生が50年前にフィールドワークをおこなった、奈良県二階堂村を再訪した。むらの人々やむらの風景は、著者が滞在した当時と大きく変わってはいた。しかし、同時に、米山先生が生き生きと描いたむらの世界観は、脈々と流れつづけているようであった。
 コミュニティの存在意義が再び見直されつつある今、本書は非常に有益な示唆を与えてくれる。コミュニティとはいかなる単位でありうるのか、またどのような自然環境とのつきあいのなかでその世界観が形成されるのかについて、多様なコスモロジーをもった小盆地宇宙をモデルとして、あらためて検討する必要性を強く感じた。
 本書は、日本において文化人類学と文明学を架橋しようと試みてきた米山俊直先生の一周忌にあわせて公刊された、いわば先生の遺書といってよい。本書で示された、むらの文明論的意義を人類学のフィールドワークから導き出した米山学のエッセンスは、21世紀の日本社会に生きる私たちにとって、これからも有効な羅針盤となるだろう。
(人文書館・2007年)

『比較文明 23』2007年11月20日発行 比較文明学会 行人社

『「日本」とはなにか』文明の時間と文化の時間
米山俊直 著

中牧弘允(国立民族学博物館教授・宗教人類学)

 昨年逝去した文化人類学者・米山俊直の「遺稿集」である。「都市列島日本」というタイトルで世紀の変わり目に出版される予定だった。
 農村列島から都市列島へと変ぼうをとげた時期の生き証人として、生前の著者らしく軽やかに筆を進めている。しかし、そこには知的遍歴の足跡も刻まれており、随所に刺激に満ちた指摘がある。
 たとえば、1990年代をロング21世紀のはじまりとみる。冷戦体制の終焉(しゅうえん)、グローバル化、IT革命等々にくわえて、“農村”の消滅、“市民”の登場がそれを特徴づける。日本列島全体が“市民性”を持ちはじめているとの指摘だ。
 そのことを自分史に重ねながら、生まれ育った土地では「なら学」を、知的活動の拠点だった京都では「京都学」を構想し、長期住み込み調査をした遠野盆地をモデルに「小盆地宇宙」論を展開する。そして、むらの変ぼうをなげくかわりに、市民としての自覚に未来を託している。
(人文書館・2625円)

『信濃毎日新聞』2007年7月15日(日) 読書欄 書評委員10人が選んだ夏休みの1冊 より

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