「レンブラントのユダヤ人 物語・形象・魂」に関するレビュー
「レンブラント神話」を超えて
知らなかったが、十七世紀のオランダはユダヤ人のつくった国だったのである。アムステルダムも、その人口の大半はユダヤ人だった。レンブラントの家があるユダヤ大通りもただの大通りというくらい。そして、マドリッドにあるプラド美術館、ベラスケス、スルバラン、ムリリョ、グレコ、ゴヤなどのスペインの画家たちの傑作はいうまでもなく、フラ・アンジェリコ、マンテーニャ、ラファエルロ、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ、カラヴァッジョなどに代表されるイタリア、それからボッシュ、ブリューゲル、ルーベンスなどのフランドル、さらにロランやプッサンらのフランス絵画、しかもいずれも粒揃いときている。要するに世界一の美術館だのに、レンブラントがたった一枚しかないのはなぜだろうか。たいていの有名な美術館なら十枚ぐらいあるのに。スペインとオランダの100年近くも続いた戦争ゆえ。
つまり、カソリックとプロテスタントの戦争。そのプロテスタントの合理性のかげにユダヤ人がいたのである。
本書の本文の前に長い「訳者まえがき」があり、その冒頭に、「アムステルダム中央駅の正面玄関を出て、すぐ左手に伸びるゼーダイク(通り)の手前に『プリンス・ヘンドリック』という、かつてのオランダ総督の名前をこっそり拝借したような屋号の、高級ではないが、しかし居心地はさほど悪くはないホテル」が出てくる。1988年5月13日の金曜日、「ようやく喧騒が鎮まろうとする午前3時頃」、「甘く切ないトランペットの調べで知られるジャズ音楽界の大御所の一人」が、このホテルの通りに面した部屋の窓から真っ逆さまに落ちて死んだ。この本の翻訳をしていて、アムステルダムを歩く必要に迫られた訳者がたまたまアムステルダムに着いて早々、このホテルに投宿して事件にあった。事件にあって考え込んだという。
「ジャズ音楽界の大御所」はヘロインとコカインをやっていたと思われる。「飾り窓の女たち」という娼婦が居り、また他の国々では法律で固く禁じられている「覚醒剤」が、歯磨き粉同然に日用品として流通していることから、妙に「開放的」なイメージで受けとめられているオランダ、その「自由」が音楽的創造力に限界を感じている「大御所」を薬に走らせ、あげくの果ての投身自殺という結末。訳者は、「そのような死は、アムステルダムであればどこにでもあるような死ではないか、と言われれば、あるいはそうかもしれない。が、いまのぼくたちの問題は、レンブラントの破産である」と書く。しかし、「合理性を重んじる経済的な回路とは無縁の、ありきたりの正論では、けっして汲み尽くすことのできない不可解な領域がある」とも書く訳者である。
世に「レンブラント神話」なるものがある。アムステルダムのユダヤ人のためだけの目的で、好意的に絵筆をとったというレンブラントの理想化である。果たしてそうだったか。少なくとも、レンブラントの破産は、レンブラントの隣人、ユダヤ商人ダニエル・ピントの家を「約86センチの持ち上げ」の改修工事にあった。
二軒長屋で彼らの家は壁一枚で仕切られていた。いずれにしろ、レンブラントにしてみれば改修工事の代金など「寝耳に水」だろう。そもそもこの「大通り」のレンブラントの家は1639年から58年まで約20年暮している。1639年に巨額の資金の借り入れに成功している。それを返したという話を聞かないうちに、『夜警』の悪評である。
「訳者あとがき」で著者のナドラーについて訳者は書く。
「十七世紀の西洋哲学を専門とする研究者であり、現在ウィスコンシン大学マディソン校で哲学を教授する立場にある。彼の関心は、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、中世ユダヤ哲学の近代的側面などに及んでいるが、近年刊行された著書としては、「スピノザ、ある一つの生涯」「スピノザの異端説、魂の不死性とユダヤ人の精神」、「スピノザのエチカ、ある一つの序説」とスピノザについての研究がつづいている……」
『月刊 ぺるそーな』2009年2月号 2009年1月25日発行 「出世したければ本を読め」 より
画家の生きた時代を炙り出す!
一七世紀西洋哲学の研究者スティーヴン・ナドラー著『レンブラントのユダヤ人』(有木宏二訳、人文書館)は、画家の生きた時代と社会をユダヤ人との関係から炙り出す力作である。著者はレンブラントらプロテスタントの芸術家とユダヤ人の接点を例えばアムステルダム在住のラビ、メナッセ・ベン・イスラエルの著作や「永遠の魂」等から導き出し、ユダヤ世界が描かれた事情に切り込む。カトリック国スペインからの独立、改宗ユダヤ人の贖罪意識、ポルトガル系と東欧系のユダヤ人それぞれの事情、メシア待望論等当時の社会状況にも照らし、オランダ人と共存しえたユダヤ人を巡る文化論となった。またユダヤの歴史と宗教を解説した「訳者まえがき」は、本書にとり極めて有益な渾身の指針である。
真野宏子・早稲田大学講師・西洋美術史専攻
『週刊 読書人』2008年12月26日(金) 年末回顧総特集号「二〇〇八年回顧」芸術 より
『レンブラントのユダヤ人』
スティーヴン・ナドラー 著 有木宏二 訳
絵画は誰でも見れば、分かるという考え方を否定する必要はないかもしれないが、歴史的背景を知るともっとよく分かる。哲学を専門とする著者が、一七世紀オランダの画家レンブラントがあれだけ多くのユダヤ人を描いた背景を読み解く。面白い。
富山太佳夫・青山学院大学教授・英文学
『毎日新聞』2008年12月14日(日) 今週の本棚「2008年『この3冊』」 より
過去と現在、400年の時空を往還する、
著者と訳者、その各々の足取りの確かさ、軽やかさ!
「うすぐもり 日は白き火を波に点じ レンブラントの魂ながれ 小笹は宙にうかびたり」、これは、「雨ニモマケズ」で有名な宮沢賢治の詩シリーズ「冬のスケッチ」の一節なのですが、賢治がレンブラントに関心を寄せていたことがうかがえます。賢治は、教師時代に複製絵画を展示し、生徒たちに鑑賞させていたといいます。
のっけから賢治の話で恐縮です。さて、私が初めてレンブラントの絵を観たのは10年前のこと。川村記念美術館所蔵《広つば帽子を被った男》の、深い陰翳が刻まれたその表情に引き込まれてしまったのです。オランダ生まれのその画家に興味を抱き、早速レンブラントの画集を購入したのですが、まず驚いたのは自画像の多さでした。まるで画家自身の精神の軌跡の証言でもあるかのようなさまざまな肖像画に惹かれ、レンブラントの生きた時代を知りたいと思うようになったのです。そして今回、その指南書ともいうべき、『レンブラントのユダヤ人 物語・形象・魂』(スティーヴン・ナドラー著/有木宏二訳)を読了し、重層的なこの本の内容に圧倒されました。
レンブラントの虚と実をより分けながら、その本質を見極めんとする著者ナドラーの、飽くなき探究心と、真実に迫ろうとする気概を終始感じながら頁をめくりました。文献学的な実証と、現場で感応した著者の思いが生き生きと伝わり、大変重層的な内容で、読後、独特の達成感に包まれました。
とくに、17世紀のオランダ絵画の歴史をひもときながら、レンブラントの生涯を、周辺の個性豊かなユダヤ人たちとの関係性を探りながらの考察は興味深く、同時代を生きた他の画家たちの作品群も印象的でした。17世紀、スペインからの独立を勝ち取り、ヨーロッパ一の貿易国としてにぎわうオランダ。そこにレンブラントは彗星のごとく現れたのでしょう。ナドラーは、活気あふれるオランダの街並みと、廻りの人々をレリーフのように浮かび上がらせていて文章そのものも魅力的です。実証性に富んだナドラーの筆さばきは、すんなりと読者をオランダの芸術世界へといざなってくれます。訳者が記した「まえがき」は、最初に提示された羅針盤と思われます。
既述で、重層的な内容と表現しましたが、複眼的とも言い換えられるでしょう。ナドラーの精緻な筆致は、ときには、スピノザ、ゲーテ、ほかにも、ユダヤ神秘主義者の泰斗を幾人も登場させていて、著者のフィールドの広さ豊かさに感嘆するとともに、その複眼的なまなざしこそ、この著書をいっそう密度の高いものにしていると考えられます。
過去と現在、400年の時空を往還する、柔軟かつ、冷徹なナドラーの思考は、17世紀の運河の街、そこで右往左往する人々、そしてレンブラントの生きざまなどを現出させ、400年前の社会と文化の息吹そのものであるかのように、この本は鮮やかに伝えてくれます。そしてなにより注目すべきは、著者と訳者、その各々の足取りの確かさ、軽やかさ、です。“現場”を隈なく歩くことで、しなやかで強靭な思考の輪郭をかたちづくっているのではと思います。『レンブラントのユダヤ人』は、美術史、建築史、精神史、哲学史、さまざまな領域が重なり合い、響き合いながら歴史の断面というひとつのかたちを見事に描いてみせます。学問の根っことは、本来ひとつなのだな、と改めて気づかされました。
さまざまな関心でさまざまな人に読まれるべき本だと私は思います。
森岡京子・宮沢賢治学会会員・宇都宮市
レンブラント神話最終解答
いわゆる“レンブラント神話”──北方の文化英雄としてのロマンティックな画家像は、20世紀後半には解体されたが、なお曖昧なまま残されていたのがユダヤ人との関係だ。《ユダヤの花嫁》や《ベルシャツァルの宴》(本書の表紙絵)といった名作の存在と、ホロコースト以降の贖罪意識とが相まって、レンブラントのユダヤ的なるものへの親近をことさら強調する文脈が形成された。だが、本書によれば、ユダヤ習俗を精彩に描写した版画家ド・ホーホ、シナゴーグを繰り返し描いた建築画家ド・ウィッテ、ユダヤ人墓地を描いたライスダールなどと比較して、レンブラントの事例は当時のオランダでは必ずしも突出したものではなかったという。「新しきエルサレム」アムステルダムのユダヤ人社会を軸としたダイナミックな文化史。イメージの王国オランダの美術になじんだユダヤ人たちが、モーゼの十戒のうち偶像崇拝を禁じた第二戒とどう折り合いをつけたのかなど、興味深いトピックスが満載である。
『芸術新潮』9月号 通巻705号2008年9月1日発行 読書欄より