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「スピノザ ある哲学者の人生」に関するレビュー

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現在最も信頼しうるスピノザ伝
邦訳の意義は掛け値なしに大きい

 原著は堅実な史料批判と穏当な推測で知られ、今のところ最も包括的で信頼しうるスピノザ伝と言える。1999年の刊行後つとに、各国のスピノチストの書架に、批判校訂版やコンコルダンスとともに並んだ一巻である。ヴァルターによる資料集は別格として、伝記情報の量でもこれに次ぎ、レファンス的有用性は高い。フロイデンタール著『スピノザの生涯』(原著1904年刊)以来の決定版、という評価を固めつつあり、邦訳の意義は掛け値なしに大きい。
 同時に読みものとしての魅力をそなえ、スピノザ哲学の険路へ一般読者をいざなう、恰好の手引きともなる。著者ナドラーの筆は、しばしば時代史の細部に分け入り、本文は500ページを超える。にもかかわらず、謎と起伏をたたえたスピノザの生涯は、最終章まで読者の目を捉え離さない。
 とはいえ本書は、スピノザをめぐるロマンティックな逸話にみられる、考証を欠く傾向とは無縁である。同時代ネーデルラントのコンテクスト研究は、近年とみに活況を呈する部門である。またアムステルダムのユダヤ共同体の史料研究は、ヴァス・ディアス、レヴァ、ポプキンらの寄与により、フロイデンタール以降いちじるしい進展を見た。両分野に通ずる本書は、専門家にも啓発的で、政治論や宗教批判を中心に、スピノザ思想にせまるヒントに満ちる。
 邦訳は索引と十葉ほどの口絵こそ省くが、原著の真価である書誌情報は漏らさず掲げる。テクニカルな後注65頁と参考文献15頁からは、訳者と出版社の気概がうかがわれる。さらにカナ索引に原綴を併記すれば、本訳のパイオニア的意義をなお高めただろう。オランダ語やヘブライ語のカナ表記には、かなりの無理がともなうからである。
 この大部を訳した労苦には敬服するほかない。意訳に走らない姿勢も基本的に好ましい。原著の叙述は緻密で、些細な言いまわしひとつで歴史的事実に背きかねないからである。
 ただしスピノザのテクストまで、意訳の多い英訳から直訳調で重訳したのは、(岩波文庫の畠中訳を独訳からの重訳とする言い分とあわせ)支持しがたい。また『エチカ』についての解説部分などでも、厳密に哲学的な含みをもつことばの多くが無造作に直訳される(定着した訳語を斥けるなら、原典に当たるべきである)。このためスピノザの哲学的肉声は遠のき、信頼しうる邦訳(または原典)を参照せずには、文意をつかみかねる箇所も見られる。初期近代哲学全般に通じたナドラーによる、明快な解説だけに、たいへん惜しまれた。国内の専門家から、助言は得られなかったのだろうか。
 哲学的議論のほか、ユダヤ学方面の訳もやや心もとない。ポルトガル語やオランダ語の訳語の背景にあるヘブライ語の概念は考慮されず、訳者が基礎的な述語におぎなう説明も、惜しいかなしばしば要を得ず、時に誤る。アムステルダムのユダヤ人がなぜポルトガル「国民」なのか、ヴェネツィアから招いたイベリア性のラビがなぜ「東欧系」なのか──初歩的な点で読者はとまどうだろう。「ミシュナー的」と「メシア的」のとり違えなど、読者がお手上げの誤訳も散見された。
 とはいえこうした難点を差し引いてなお、本書はスピノザの生涯と思想への魅力的いざないである。繰りかえすが、本書は当面最重要のすぐれた基礎文献であり、以上に細部をあげつらうのも、原著の重みゆえにほかならない。
 もとより未来永劫、いかなるスピノザの伝記も未完であり、その思想とおなじく彼の生涯には決しがたい謎が残る。たとえば破門の具体的いきさつを明かす史料が見つかる公算は、今後とも小さい。また本書はもちろん、2011年に刊行された『エチカ』のヴァティカン草稿も知らない。本書を信頼すべきスピノザ伝としたのは、この逃げ水のような未決性を知る、ナドラーの周到さである。

高木久夫(たかぎ・ひさお)氏 明治学院大学准教授・思想史専攻

『週刊 読書人』2012年5月18日(金) 4面【学術・思想】書評 より

孤高な哲学者の一大伝記
憤りを内に秘めて

 スピノザは、レンズ磨きの僅かな収入で生計を立て『倫理学(エチカ)』の著述に打ち込みながら、清貧のうちに生きた哲学者として知られる。しかし、宗教諸派が政治的な権力をもつ当時のオランダ社会へのほとんど憤怒に近い批判をもっていたことはあまり知られていない。
 彼の『神学=政治論』は、神の言葉としての特定の書物の神聖さに訴えることによって自らの権力乱用を正当化する宗教政治家達への徹底的な批判であった。だが、宗教権威から容赦のない告発を受け、無神論と自由主義を広めようとする破壊的な著作として激しく非難された。そのため、有名な『倫理学(エチカ)』は印刷を中止、生前には出版されることはなかった。
 ユダヤ人でありながらユダヤ共同体からも破門され、十七世紀オランダ社会からも危険人物視され、自由を尊ぶゆえに、二つの相異なった文化間で精神的にも亡命せざるをえなかった一思想家の人生、時代、思想が、当時の政治的社会的関係も含めて、本書では詳細に叙述されている。憤りを内に秘めた孤高な哲学者の、これは一大伝記である。

小林道憲(こばやし・みちのり)・哲学者
http://homepage3.nifty.com/kobayashimichinori/

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