ブックレビュー

「文明としてのツーリズム」に関するレビュー

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旅で学び、旅を学ぶ

大迫秀樹
『季刊 民族学』第30巻 第1号 83ページ 〈本棚〉掲載 (財)千里文化財団

 本書は、旅の文化研究所(1993年設立)が実施した「観光立島」のあり方に関する特別プロジェクトの成果報告書である。著者は、観光学(カンコロジア)の提唱者・石森秀三、社会学者・高田公理、民俗学者・神崎宣武の3氏。アジア地域を中心とした観光地の実態を、「民族」「芸能」「飲食」「性」「戦争と平和」「環境」の6項目にわけ、素朴な印象や疑問をまじえながら、「あくまでも自分の言葉」(はしがき)で紹介・論述している。ツーリズムの歴史や課題に言及した論考から、旅のスケッチ集風エッセイまでと幅広く、現在の観光学の多様さ、雑多さを反映した1冊にしあがっている。
 「観光」が研究の対象となる場合、かつては、観光地化によってその地域の伝統文化がどのような影響をうけ、どれだけ変容としたのか、といった点に目をむけることが主流だった。その後、観光開発が「衰退した伝統文化の再生に寄与している」「アイデンティティ創出の機会をあたえている」などという議論もふえてきた。この点に関しては、本書でも紹介されているアメリカ・インディアンの事例が興味深い。南・西部各州のインディアンのなかには、自らカジノを営業し、おおくの収益を上げている部族がいるという。かれらはそれらを財源に、居住地の道路や学校などを整備し、さらに部族の歴史・文化の保存を目的にした博物館を建てているというのだ。
 2001年の9・11同時テロが観光業界にあたえた影響は、さまざまな報道で伝え知るところである。国際観光は「平和の象徴」「平和のパスポート」だといわれるが、どんな楽園であっても、ひとたび紛争やテロが起こるとたちまち無人の国と化してしまう。近年は、ルクソール(エジプト)の乱射事件やバリ島の自爆テロ事件も頻発しており、観光そのもののあり方、是非まだ論じられることがふえた。また、イラクで殺害された日本人青年の無謀な「観光」旅行が、つよい批判を浴びたことも記憶にあたらしい。
 これらの事件は、さまざまな国際問題を議論するうえで、ツーリズムが避けることのできないテーマになっていることを如実に物語っている。今後ますます「平和学としてのツーリズム・スタディーズ」(5章)、すなわち観光がいかに国際社会の安定や世界平和に貢献できるか、という視点が重要性をましているのだろう。

システム化されすぎ精神性を失った観光に対し、
旅の原点を踏まえた新たな観光

大寺 明
『ダ・ヴィンチ』2005年11月号 「ダ・ヴィンチBook Watcherの絶対読んでトクする20冊」より

 ある旅好きの友人が言った。「最終的に自分が住みたいと思える場所を探している」と。いわば自分にとっての理想郷であり、夢だ。そこで自分のまだ見ぬ世界へと向かう。が、そこはもう観光化されすぎ、とても理想郷とはほど遠い。そこで彼はさらなる秘境へと向かう。だが、そうした秘境すらもやがて情報化され観光化されてゆく。しかし、その情報がなければ、自分もそこへ辿り着けなかっただろう。また、ある程度のシステムがなければ、たとえ短期間であっても余所者にとっては不便以外の何ものでもなく、とても理想郷とは言えない。旅人のジレンマである。
 本書は日本の観光政策に対し、21世紀の産業として「観光立国化」を掲げ、沖縄や白山といった自然に溢れ独自の文化や信仰といった物語性を持った国内の地、そして中国・海南島やタイ、サイパン、ハワイといった海外の観光地を3人の識者それぞれがリポートした成果をまとめたものである。今いる場所から離れ、別の世界に身を置くことは人にさまざまな夢を見せる。しかし、あまり画一化された観光システムは、人の夢みる行為や精神性を疎外する。「観光」という言葉が「旅」よりロマンに欠け、安っぽく(金銭的には高いが)見られている感があるのもこのためだ。環境(あるいは個人の精神性)破壊の側面が目立つマス・ツーリズムに対し、個人の夢を崩さないサスティナブル・ツーリズム(持続可能な観光)、オルタナティブ・ツーリズム(もう一つの観光)に、今居る場所から異界を観る新たな夢の形を期待したい。

東アジアの島嶼にて日本を思う「旅の達人」たちの集大成

山村高淑(京都嵯峨芸術大学助教授)
『まほら』2005年10月号

 「日本人は、なぜグルメツアーに夢中になるのか?」「“旅の恥はかきすて”の文化的背景は?」「アジアの民族芸能はミュージカルやオペラのように世界的な芸能になり得るか?」「観光産業は貧困地域の経済発展に本当に貢献しているのか?」などなど。海外旅行が普及し、私たちが見聞できる世界は飛躍的に広がった。好奇心旺盛な旅行者であれば、旅先でこうしたさまざまな疑問に否応なく直面する。時に現地で出会った日本人グループの傍若無人な振る舞いに嫌悪感をもって。時に現地と日本との経済格差、文化的価値観の相違を目の当たりにして。こうした誰もが一度は感じたことのある「旅」についての素朴な疑問の数々に、旅の達人であり、日本における観光研究の草分け的存在である神崎宣武・高田公理・石森秀三の三氏が鋭い感性で切り込み、自らの言葉で生き生きと語ってくれるのが本書である。
 三氏は、この10年間に旅の文化研究所の共同研究として、サイパン、海南島、プーケット島、台湾、済州島、沖縄といった、東アジアの島嶼部を歩いてきた。本書はその記録として出版された。現地を歩くことを第一義とする徹底した現場主義。地域事情と国際情勢、観光開発の光と影、といった事象の多面性を偏見なく検討していくバランスの取れた分析力。本書に貫かれているこうした姿勢は、さすがフィールドワーカーとしての三氏の真骨頂である。そして、それだけにとどまらず、現場で得た知見を、日本や東アジア諸国・地域が、観光産業と今後どのように付き合っていったら良いのか、実社会における処方箋にまで昇華させている。このあたり、旅の「実学」を標榜してきた三氏が、これまでの取り組みを本書において集大成させようとした意気込みが伝わり圧巻である。
 いずれにしても本書は、それぞれ読み切りの節から構成されているので、どこから読んでも楽しめる。旅好きの読者諸氏にはより深く地域を知るための旅の指南書として、旅行業関係者諸氏には今後の旅・観光のあり方を占う参考書として、お勧めの一冊である。

世界を鏡に「自文化」をみつめる

 それにしても、三氏の個性、旅にかける情熱、そして興味の対象に対する飽くなき探究心は読者を飽きさせない。民俗学を専門とする神崎氏の飲食と性に対する論述は、日本人の旅における行動原理論にまで展開しているし、社会学の高田氏の、地域の風土と情報メディアに関するモデルを多用した分析は、旅を取り巻く環境システム工学論の誕生を予感させる。また観光文明学の石森氏の、民族の権利、戦争と平和に関する議論は、旅を通した文化的安全保障論という国家政策論にまで広がりを見せる。
 こういうと、三氏がばらばらの議論をしているように聞こえるかもしれないが、決してそうではない。読み込んでいくうちに、三氏とも実のところ、東アジア諸国・地域の事象を通して、祖国である日本の姿を見ていることがわかる。三氏は共通して、旅先から日本の比較文化論を展開しているのだ。そこには日本の、そして日本人の未来に対する希望と憂いが込められている。
 21世紀、グローバル化・情報化の波はますます激しいものとなる。そんな中、私たちは常に、異文化と照らし合わせながら、自分が背負っている祖国・故郷・文化とは何か、自分自身のアイデンティティについて問いたださざるを得ない。それもできる限り、異文化の地を実際に「歩いて」「見て」「聞く」ことによって。こうした作業を経て初めて、自文化を相対的に再確認でき、異文化を尊重し、多様な文化の共存を目指す糸口が見つかるのだと思う。世界を鏡とした自文化への内省の旅、というのが21世紀の観光のもつ大きな意義なのだ。神崎氏の「私どもは、自身がよき旅人でありたい」という言葉に、そうした思いが集約されているように思う。
 とはいっても、何も空間的に移動することだけが旅ではない。本書に向かって、達人の旅の記録を追い、深い思索の旅に出てみるのも悪くない。それもまた、よき旅人の一興というものだろう。

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