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「風狂のひと 辻潤」に関するレビュー

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書評
高野澄『風狂のひと辻潤』

大月 健(虚無思想研究編集委員)

 高野澄は『風狂のひと辻潤』の序章を関東大震災の大杉栄・伊藤野枝虐殺事件からはじめている。辻潤は『ふもれすく』に「夕方道頓堀を歩いている時に、僕は初めてアノ号外を見た。地震とは全然異なった強いショックが僕の脳裏をかすめて走った。それから僕は何気ない顔つきをして俗謡のある一節を口吟みながら朦朧とした意識に包まれて夕闇の中を歩き続けていた」と悲痛な思いを記している。『ふもれすく』は震災二ヶ月後の十一月に執筆され、『婦人公論』の大正十三年二月号に掲載された。辻潤自身も川崎で被災し、「家は表現派のように潰れてキュウビズムの化物のような形をしていた。西側にあった僕の二階のゴロネ部屋の窓からいつも眺めて楽しんでいた大きな梧桐と小さいトタン張りの平屋がなかったら、勿論ダダイズムになっていたのは必定であった」と表現している。辻潤が提唱するダダイズムを、震災は瞬時に現実化したのである。辻潤が思想としてのダダイズムから虚無思想に転換する契機となったのは関東大震災の体験だろうと思われる。
 辻潤は身重な小島きよを郷里の広島に連れて行く。途中で立ち寄った大阪で号外を見たのである。大杉栄・伊藤野枝と一緒に少年橘宗一が犠牲になっている。いっとき少年が辻潤と伊藤野枝の間に生まれた長男まことではないかという情報が流れたという。まことを介して辻潤と伊藤野枝・大杉栄との関係は親密だった。ショックは隠せない。
 評伝にはいろいろな書き方がある。辻潤に関しては三島寛の『辻潤──芸術と病理』(昭和四十五年)、玉川信明の『評伝辻潤』(昭和四十五年)と『ダダイスト辻潤』(昭和五十九年)、高木護の『辻潤──「個」に生きる』がある。三島寛は精神科医として辻潤を考え、玉川信明は辻潤の思想を考える。高木護は「辻潤を書かないといっておきながら書いたのは、わたしから「辻潤」を追い出したいという魂胆もあってのことだった」と記している。高野澄の『風狂のひと辻潤』は唯一者の思想と自己享楽の意義を中心に考えられている。
 高野澄は序章の『〈評伝・辻潤〉のこころみ』のなかで「かれの生涯を一冊の書 -評伝- にまとめようと計画して、ながい時がすぎた。一冊の書の柱にたてる言葉をさがして、なかなかみつからなかった。いま、ようやく、柱に立てられる言葉を見つけた。それが「人生には目的がある。人生を享楽する、それが目的だ」である。この言葉を発見して、いま、ようやく〈評伝・辻潤〉を書きはじめられる」と書いている。辻潤の『享楽の意義』という文章の位置づけが出来た時に本書の構想は成立したという事になる。それは、「彼の主著はなにかといえば、マックス・スティルナーの原作を翻訳した『唯一者とその所有』である」につながっている。唯一者として辻潤が文章表現すれば自ずから『享楽の意義』に辿りつかざるをえない。辻潤は「ダダはスチルネルの意味で、立派な現実愛好者である。スチルネルの哲学を芸術に転換すると、そのままダダ芸術が出来あがる」と云っている。唯一者の思想とダダイズムは過去を拒絶し未来を放棄する。現在を問う思想である。ニヒリズムにしても同様だ。辻潤は現実を如何に享楽するかを考えている。
 『風狂のひと辻潤』の中でちょっと馴染めない部分がある。辻潤と大杉栄と伊藤野枝との関係を唯一者として比較するところである。高野澄は辻潤を唯一者の体現者として、大杉栄と伊藤野枝を排除する。私は辻潤の思想が好きであると同時に大杉栄と伊藤野枝の考え方にも共鳴している。それぞれが唯一者だ思っている。大杉栄は『近代思想』の『唯一者──マックス・ステイルナー論』の文章を「強圧に恐れて、社会を回避し韜晦する個人主義者は、僕之を憐れみ且つ憎む。僕は殊に此の点に於て、現代の我が日本の社会に、力の宗教を説いた此のステイルナーや又は彼のニーチエなどの強強な個人主義的哲学が、更に幾度か繰返して説かれるべき要ある事を思ふ」と結んでいる。大杉栄は唯一者にニーチェの「超人」の思想に近いものを求めたのである。辻潤は「低人」を自認し、社会のなかに沈潜していく。大杉栄が権力に虐殺され、辻潤が陋巷で餓死する。それはそれぞれの死であって、比較する対象にはならない。私は大杉栄が評価するニーチェの「超人」の思想から、辻潤が自ら体現する「低人」の思想までが「唯一者」の思想の振れ幅だと考えている。 辻潤は昭和七年以降、一所不在の放浪の旅に出る。読者や友人を訪ねて関西から中国地方、北は宮城県の気仙沼まで広範囲に渡っている。尺八を吹いて門付をすることもあった。昭和十六年十二月八日の開戦の時には気仙沼の菅野青顔の所にいた。「困ったことになったね、青顔。真珠湾攻撃ぐらいでこの戦争が勝てるなら、こんな都合がいいことはないんだが、これは大変なことなんだ。僕の観る目では日本はかならず負けるよ」と敗戦を予告した。敗戦色が濃厚になった昭和十九年に辻潤は東京に戻り、十一月二十四日にアパートの一室でなくなっている。高野澄はアメリカ空軍がはじめて東京に爆弾を投下した日だ、と指摘している。
 一ツの整理、無精者が偶々気まぐれに部屋の掃除をしてみる。一切の整理の結末は自殺、それでいい加減にして、また凡ゆる塵埃の中に没入する。それが日々の生活。

(ぺるめるDROPS)「トスキナア」2007年5号より

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