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「私は、こう考えるのだが。」に関するレビュー

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ものごとを的確につかむ「言語力」取り戻すために

 「われわれにとって問題は言うことの、内容ではなく、そのかたちである」とモンテーニュは言っているが、この「かたち」の幸福(表現の的確さ)はつねにわれわれを照らし救っている。こうした幸せが、本書には見いだされる。
 「光と陰」、すなわち本書第四部で占める江藤淳の人物批評のくだりは圧巻である。著者は人間の暗い部分を、まるで画家のように、描写しながら、その透徹した言い方はどこまでも冴え、読者の心を暗くはしない。なぜなら、叙述の「かたち」が高邁(こうまい)であるから。著者は批評した相手を最後まで見放してはいない。「憐れみは恋に通ずる」と著者は笑う。著者の優しさ。
 第四部を読み終えた人は、本書の内容にもはや驚きはしないだろう。実際、「言語力を取り戻す」ための著者の処方箋は実にまっとうであり、「地球の安定的持続」のための著者の処方箋は根源的(ラディカル)なものであるが、告解におけることばのような真摯な力を持つ。言語力はものごとを的確につかみ、それを欲する人間の宇宙であるのがよくわかる。
 著者の言説は示唆的である。なぜ「美しい日本語を作らねば」ならないか。汚い日本語(たとえば「年とった女性をお嬢さんと称する」ような)は、「相手を侮辱する」ことになる。「コマーシャル」を「お知らせ」というのは、「自分たちにとって都合の悪い真実を胡麻化(ごまか)そうとする卑劣な行為」である。そして「美しい日本語は、話をする人、文章を書く人の心が美しくなくては生まれてこない」というのだ。
 おそらく、相手に対して優位に立とうとして嘘をつくことになるからであろう。最後のところ、人間の宇宙を貶(おとし)めることになろう。人間は宇宙を考えることができるはずである。動物は宇宙を考えるとはいえないだろうが。
 はたして「地球の安定的持続を賭けの対象にしてはならない」という声が、本書の隅々まで響き渡っている。言うことの内容は厳しいが、言い方は優しい。読者に強いるのではなく、読者が自ら学ぶのを待っているから。

神谷幹夫・北星学園大学教授

『公明新聞』2008年2月4日(月)読書 より

著者に聞きたい
「原因は『先進国の物狂い』」

 「自分の倫理観や世界観から日本の世相を眺めると、とても正常とは思えないことが多すぎる」と鈴木さんは啖呵を切る。本書は、言葉、教育、精神、さらには環境をめぐって、ことあるごとにつづってきた断想をまとめたものである。
 言うまでもなく鈴木さんは社会言語学の世界的権威。その一方で、日本野鳥の会顧問という顔も持つ。1年の半分を軽井沢の山荘で過ごし、クマが冬眠に入るころ、東京の自宅に戻るという暮らしを続けている。
 「初夏の軽井沢を散歩すれば、以前なら100種以上の鳥に出合うことができました。いまでは20〜30種がせいぜい。つまり東南アジアやシベリアの自然が破壊されているということです。でも彼らに《自然を守れ》なんてとても言えませんよ。日本をはじめとする先進国の物狂いの文明にこそ原因があるからです」
 《人間は繁栄の頂上を極めた》が持論である。
 「今こそ人類は経済を縮小し、人口を減らすべき。その結果として文明の大幅な後退はやむを得ない。もうわれわれには降りるしか残された道はないのです」
 日本では少子化が問題とされ、歯止めをかけることにのみ関心が向いているが、その前に日本の適正人口規模がどれほどなのかを、真剣に議論する必要があると強調する。と同時に、人にはどれだけの物が必要か、ひとりひとりが自分の暮らしを再点検すべきだとも。
 「人間は裸では暮らせません。そういった意味で物は必要です。でもある限界を超えたら、物は人間を絞め殺してきます。多すぎるカネは人間を不幸にし、過ぎた便利は人間の体を悪くします。いまの文明は損益分岐点をとっくに超えています」
 鈴木さんは自身の哲学を地球を救うための原理、すなわち「地救原理」と命名する。その出発点こそ《人にはどれだけの物が必要か》という自身への問いかけなのだ。

桑原 聡

『産經新聞』2008年1月13日(日)読書欄「著者に聞きたい」より

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