「ゆうなの花の季と」に関するレビュー
同病者の悲哀 希望へ向けて
大城貞俊(詩人・作家)
「ハンセン病は法律で、薬害エイズは薬で患者を殺した」「病気は極めて個人的な出来事なのに、これほど徹底して家族まで巻き込んだ疾病は、後にも先にも出ないでしょう」
これらの言葉は、本書に登場する人物の言葉である。著者の伊波敏男さんは、ハンセン病を患った後、回復者であることを公言して生きてきた。しかし、病に対する社会の偏見は、回復者である伊波さんにも容赦はしなかった。9年前、その苦闘の半生をつづった『花に逢はん』を出版、大きな反響を呼び沖縄タイムス出版文化賞を受賞した。
本書は、1999年に出版された『夏椿、そして』を底本に、大幅な加筆改稿を行い、新稿を加えて再出版されたものである。タイトルにもある「ゆうなの花」は沖縄の代表的な花である。愛楽園の地の浜辺にも潮風を浴びて、ゆうなの花が咲く。
伊波さんは沖縄愛楽園に入園していた少年のころ、川端康成にその文才を見いだされ励まされる。この天賦の才能に努力を重ね、同じ病で苦しんでいる人々の悲しみをすくい上げるように文筆活動を続けてきた。現在は長野に住んでいるが、二度と過った法律や偏見で人々が苦しむことがないようにと、講演活動を続け、さらに『伊波基金』を創設しフィリピンの医師養成をも支援している。
伊波さんは言う。「ハンセン病に翻弄させられた人たちの悲しみは、一部の章を除きフィクションの手法でしか書くことは出来なかった。個別の事実をそのままに書くことは、いまだ許容範囲を超えてしまうのである」と。
このような配慮を常に忘れずに、全国の仲間たちの悲しみを丁寧にすくい上げて描いたのが本書である。家族の優しさの記憶を拠点に、力強く闘い続ける伊波さん。人間を信頼し、悲しみを越える視点をも模索する伊波さん。私たちは、圧倒的な権力の前に、生きる希望をも奪われた人々がいたことを忘れてはならないのだ。人文書館の努力によって出版された本書が、再び熱い感動を与え、新しい読者を獲得していくことは間違いない。
『沖縄タイムス』2007年8月11日(日) 読書欄 今週の平積み より
差別の苦悩 小さな声拾う
『信濃毎日新聞』2007年5月27日(日) 読書欄 栞(しおり) より
「人間の悲しみや苦しみは分かち合うことができるのか、どうやって乗り越えるのか。それをずっと考えてきた」
自らハンセン病回復者であることを明かし、各地で講演活動を続けてきた伊波さんのもとには時折、かつて患者だったことを隠し抜いてきた回復者や、家族に患者がいたことを伏せ続けてきた人たちが、目立たぬように姿を現す。
国の過ちを認めた2001年のハンセン病国家賠償請求訴訟熊本地裁判決によって、ハンセン病問題は解決したかのように見える。だが、回復者と家族の多くは今も、偏見や差別を恐れ、息を潜めて暮らしている。
沈黙の果てに、彼らが語った無念と苦悩、そしてひそやかな願い。その小さな声を「落ち穂拾い」のように拾って、豊かな詩情で紡いだのが本書だ。1999年に出版した『夏椿、そして』を全面的に書き直し、新たな章を加えた。
前作も、本書も、エピソードは「ノンフィクションに限りなく近いフィクション」。まだノンフィクションで書ききることはできない。それがハンセン病問題の現状だ。
米軍統治下の沖縄に育ち、16歳の春、ハンセン病療養所を“脱走”して本土に渡った。病が治癒し、東京で社会復帰した後も、差別と闘ってきた。ハンセン病、沖縄、障害者──。三つの「堅い鎧(よろい)」が、常に身にまとわりついた。
2000年に東京から長野へ居を移した。「子どもたちと出会って、自分が変わった」と言う。
県内の小中学校や高校へ講演で招かれ、ほうぼうを回る。子どもたちは伊波さんを「ハンセン病回復者」である前に、一人の「おじさん」として出迎える。自然と肩の力が抜けた。
世の中の悲しみや怒りは、気づいた人が手を重ねることからしか、不条理は直せない、と思う。「どうすれば、読んだ人が自分を重ねてくれるような文章が書けるのか。僕はここにこだわりたい」